【初めての王祇祭レポート】1日目
2019年2月1日と2日は黒川地区で王祇祭でした。
王祇祭は地域と氏子のお祭りで、500年以上も一度として途切れることなく続いている、春日神社の例祭の中で最も大きく、とても大切なお祭りです。
王祇祭は1ヶ月くらい前から始まります。1月3日に興業(こぎょう)という始まりの儀式があって、能太夫から演目が発表され、稽古が始まります。祭りに関わる人々は精進に励み、肉や魚は口にしないそうです。 その頃から準備は地域の皆さん総出で始まります。毎日のようにいろんな準備があり、当日を迎えます。
今回王祇祭当日2日間にわたって、参加させていただいたのですが、私の感じた王祇祭をレポートしたいと思います。
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王祇祭当日(2月1日)
午後3時すぎ、当屋での観覧申込者の皆さんは王祇会館に集まっていました。全国いろんなところからたくさんの人が来ているようでした。
受付を済ませてから、お神酒と、黒川名物の行事食、凍み豆腐をいただきます。
1月中旬に王祇祭の準備の一つ、豆腐焼きを見に行ったのですが、これがその時に仕込んだ豆腐だそうです!王祇祭の時に振る舞われる凍み豆腐を、村総出で準備します。
王祇祭は別名豆腐まつりとも呼ばれている所以です。 そして出された豆腐は二つとも味付けが違いました。
◎上座(写真左) 凍み豆腐を温めて山椒、胡桃などで作ったタレに付けて食べる。
◎下座(写真右) 味噌煮したものを、「二番汁」と呼ばれる醤油ベースの熱い汁をかけて食べる。
どちらも上にゴボウがのっていて、山椒もとてもきいていておいしかったです!
*ちなみに、この凍み豆腐は当屋豆腐として製品化されているので、櫛引で買うこともできます。
さきほどちょっと触れましたが、黒川能は大きく上座と下座という宮座(氏子で組織され、神事を行うグループ)に分かれていて、それぞれが能座を形成し、祭の中で能を演じ続けてきました。
そして、王祇祭では上座下座、それぞれの最年長の氏子の家が当屋として当てられ、それをつとめる氏子を【当屋頭人】といい、この王祇祭の主人公になります。神様を迎える重要な役で、あらかじめ宮司から国司号(*江戸時代の大名の役職名)が与えられます。
今年の当屋は、上座が昭和15年生まれ、上の山の渡部俊美さん(屋号:仁兵衛) 河内守
下座が昭和18年生まれ、小在家の秋山武彌さん(屋号:四五右衛門) 武蔵守です。
一生に一度の長寿のお祝いで、丈夫で務めることができることが最高の幸せと言われています。翌年には長老になり、次の年長者が当屋にあたるそうで、何年も先まで決まっているとのことです。
・・・・話を戻しますね。
皆さんが集まった頃、ホールで当屋での観能の諸注意等聞きます。
私が今回行くのが上座でしたので、案内人のもと、皆さんで上座の当屋へ徒歩で移動。 到着したところは公民館でした。
昔から当屋は自宅で行っていて旧来の日本家屋にみられるふすまや障子を外すと座敷や茶の間が広くなる家の作りでした。 でも最近はそういった作りのお宅は少なくなってきたというのもあり、自宅を当屋にしないで、公民館ですることが多いそうです。
さて、中に入ると、すぐ目の前には能舞台がありました。
そして、能舞台正面の奥の床の間には、上座の王祇様(ご神体)は横にして吊るされていました。 そしてその下には、王祇守(王祇様を守る役)と提灯持ちと当屋頭人が座っていました。 下座では舞台の角に王祇様を縦にして置き、その横に王祇守と提灯持ち、当屋頭人が座ります。
****** 氏子の方々の王祇祭当日の流れを少し説明します。
朝未明の暗いうちに春日神社のご神体の二体の王祇様を春日神社から、上座・下座の両当屋にお迎えします。 王祇様は長さ2.5mほどの3本の杉の鉾を紐で連ね、頭には紙垂(しで)と呼ばれる紙が巻かれています。広げると扇みたいになることから、王祇様の名前の由来になったと言われています。
当屋に到着した王祇様に、布着せが行われます。 全体的に扇形に広げて、そこに白い麻布を張ります。 大地踏の時だけ広げ、通常王祇様は閉じられています。 それから座狩(総点呼)、当乞い(来年の当屋を確認する儀式)、ふるまいなどがあり、そして夕方いよいよ始まる頃には当屋にたくさんの人が集まってきて、結構ぎゅうぎゅうの満員御礼状態。→→私たちはここから観覧することになります。
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舞台の周りに蝋燭がともされ、最初は稚児が演じる大地踏から始まりました。各座で三歳から六歳までの男の子が二名ずつ選ばれ、当屋と翌日の春日神社で一人ずつ演じます。 扇形に広げられた王祇様の元で、稚児が扇を肩に担ぎながら、足拍子を踏んで大地を踏みしめ悪霊を鎮めるなどの所作で、新年の安穏と繁栄を祈るものです。
選ばれた子はたくさんの稽古を経て、本番を迎えるのです。 そしてこの晴れの大舞台を無事に終えると、周りから拍手が起こります。
大地踏が終わると、次は式三番(しきさんば)です。 祭事のはじめに演じられるもので、露払い役の千歳(せんざい)、天下泰平を祝福する翁(おきな)、五穀豊穣を祈願する三番叟(さんばそう)があります。 厳密にいうと、能よりも古い様式を持つものだそうです。
そしてこの時上座では、“所仏則の翁”という王祇祭のときだけしか演じられない、特別な翁が舞われ、下座は通常の翁「公儀の翁」が舞われるのです。 (下座では三番叟が所仏則になります)
・・・大地踏と式三番は2日目にもあるので、後でもう少し触れることにしますね。 式三番がおわり、これからは能五番、狂言四番が神様のために夜を徹して演じられます。 今年の上座の番組はこちらでした。
毎年演目は変わるのですが、能、狂言、能、狂言…と交互に演じます。
王祇祭の前に何も知らないではよくないと思い、実は能の勉強をある程度していったので、それが功を奏したか、解説書をみながらではありますが、何となくは見方がわかるようにはなっていたのでなんとかついていけました!
最初は脇能と言って、神様がシテ(主人公)のもので、『絵馬』でした。
その後に間髪入れずに、狂言『末広』で、それが終わる頃には、もう10時頃で、だいぶ緊張感も解け、人も落ち着いてきて、お弁当を広げる人も増えてきました。
ここで、「暁の使い」が到着しました。 下座の使者で、下座の当屋で能が滞りなく進行していることを伝えるために訪れたのです。王祇様を拝し、当屋頭人や上座の長人衆、楽屋に居る能太夫に挨拶をして、そして舞台の中央でお膳の接待があって、帰っていきました。
それから中入りで、舞台の上では当屋頭人はじめ、役者、地謡、囃子方らに夜食が出され、いったん休憩に入ります。その頃には私たちもお弁当を広げ、食べることに。凍み豆腐とお酒の振る舞いがあって、いただいたらなんと…盃が・・・味噌汁椀の大きさでした…。(大きいよね…?)
しかもかなりなみなみと注がれてありがたいやらそんなに飲めないやら…。でも一口口に含んだとき、杉の木の香りがふわっとして驚きました。熱燗だったのですが、熱くしたお酒を杉でできた樽に入れているので杉の香りがするのでした。美味しくいただきました!
中入りが終わり、また能が再開しました。 能『熊坂』→0:30頃 狂言『膏薬煉』→ 能『吉野天人』→ 2:00頃 狂言『柿山伏』→ 能『船弁慶』→ 4:00頃 狂言『節分』→ 能『鷺』…5:00終了。
朝までノンストップで、能と狂言が繰り広げられました。
私は解説書とにらめっこしながら、今どこの謡のパートだろう?となぞりながら、理解しようと頑張り、昔の言葉に翻弄されながらも、だいぶ聞き取れるようになってきたように感じました。話口調がわかってくると、狂言の面白さもわかってきて、笑いどころでも笑えるようになりました。大きな進歩です!
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能は登場人物が多いのもありますが、大人だけが演じるものではなく、小さい子供も夜遅くの演目に出ることも多かったのが印象的でした。
難しい台詞(?)もあったりしながら、こうやって少しずつ、地域の若い人を育てていくのだろうなと思いました。
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夜もだんだん更けていき、3時くらいには、眠りに落ちる人、休憩所に戻る人もいて、まわりがまばらになってきました。こちらも睡魔との戦いです。 それでももちろん能は続きます。
この頃になると、カメラのシャッター音やスマホなどの機械音がだんだん聞こえなくなってきて、聞こえるのは能や狂言の音だけ。
今、目の前に広がっているのは能の舞台だけで、自分がいる場所もタイムスリップしたかのようにあいまいに感じ、全身が能の世界に包まれているような不思議な感覚になりました。
そして、全ての演目が終わったのが朝5時過ぎ…。 この時点で、2日間にわたるお祭りの3分の2が過ぎたくらいです…。もう3分の1が残っています! でも、さすがに少しは仮眠を取らないと、最後まで通しで見られる気がしないので、休憩所に戻ってしばしの仮眠をとりました。
・・・・・2日目に続きます。
文・写真 / 櫛引地域産業振興プロジェクト推進協議会 馬場 合